2017/12/22

祖父との思い出

例えば、朝のコーヒーを飲もうとしたとき、帰りの電車に揺れているとき、部屋の明かりを消そうとしたとき、そんな何気ない日常の中で、おじいちゃんのことを思い出す。今日はまさにそんな日だった。なぜかおじいちゃんの笑顔が頭から離れなくて、会社のトイレで少し泣いた。

私のおじいちゃん、父方の祖父は中国人の生物学者で、研究と学生への教育に生涯を費やし、私が小学生の頃に亡くなった。多くの知識人や政治家が迫害された文化大革命の中で家族を守り、激動の時代の中、3人の子供たちを全員大学に進学させた。

政治的に不安定な中国ではなく、外国で暮らしなさいと子どもたちの背中を押した。子供たちはその教えを守り、3人それぞれがアメリカと日本へ移住した。その一人が私の父だ。日本に住む私たち家族と中国に住む祖父母たち。遠く離れた場所に住む彼らに会える機会は数年に1度しかなかったけれど、物心がついてからの祖父と過ごした記憶は鮮明である。

父に連れられ、恥ずかしそうにもじもじと挨拶をする私を笑顔で歓迎してくれた祖父母。
祖父はその日の内に近所のお菓子屋さんへ私を連れ行ってくれた。
顔なじみであろうお店の店長に「日本から孫が来たんだよ」と自慢げに話し、好きなだけ選んでいいんだよ、と山のようなお菓子を買ってくれた。

そんな優しい祖父に対して、家族なのに他人のように遠慮してしまうような、幼心にむずがゆく、照れくささを感じたのを覚えている。中国のお菓子は、普段食べ慣れている日本のお菓子とは違う不思議な味がして、「外国に来たんだ」と強烈に感じ、ほんの少しそれを恐ろしく感じた。

祖父母の家に滞在したひと夏、私は祖父にとても親しみと安心感を覚えた。
笑うと目尻に皺がたくさんできる優しい笑顔、ウトウトとお昼寝をする姿。もっとたくさんの祖父の行動や姿を見たはずなのに、なぜなのか、この2つしか覚えていない。

この人は私のおじいちゃん。優しくてあったかい。愛をくれる人。幼心に祖父の側はとても心地よく感じ、夏休み中その後ろをついてまわった。2人で何をして、どんなことを話したのかすら覚えていない。しかし、記憶の中にいる祖父の愛情は、今もじんわりと胸に残る。
祖父と過ごしたあの夏は、テレビや本の中で知らなかった「おじいちゃん」という存在が、自分の中で確立していくようだった。

楽しい時間は瞬く間に過ぎ去り、あっという間に日本へ帰る日に。私たち家族が帰国する日、祖父母や親せきが空港まで見送りに来てくれた。この日、数日前に食べた料理でひどくお腹を壊していた私は、お腹が気持ち悪いやらみんなと別れるのが悲しいやらで、ボロボロと泣いていた。

遠く海の向こうに離れて住む家族や友人がいること、その人たちと滅多に会うことができないということ。大人になった今なら、私の両親がどれだけ寂しい気持ちを乗り越えて生きてきたのか、想像することができる。

それから数年後、祖父は病で倒れ、この世を去った。祖父の他界は、私にとって初めての家族の喪失となった。涙を流す両親の側で、もう2度と「おじいちゃん」と呼びかけることのできない、私だけのおじいちゃんのことを想って、たくさん泣いた。

私にとっての祖父の姿は、あの夏の日々で止まっている。私に向ける優しい笑顔と、お昼寝する横顔。

人はいくつになっても愛し、愛された記憶を忘れることができない。だから大切な人を失った辛さは何年経ったあとも押しては引く波のように、心のすきまに押し寄せ、思い出と悲しみを残していく。

もしも祖父がここにいたら、どんな話をしよう。私がどんなことを考え生きてきて、今は何の仕事をしているのか話そう。恋人を紹介しよう。家族を作り、一人の人と一生涯添い遂げることについて聞こう。生きるとはどういうことか、聞こう。人生の壁にぶちあったったとき、祖父ならどう乗り越えたのか聞こう。20代の今なら、大人になった今なら話したいこと、聞きたいことがこんなにもあるのに。
今だからこそ、祖父が必要なのに。あの頃、私は祖父にもらった愛情の分、それを返せてただろうか。

もっとたくさん中国に電話して、恋しいよおじいちゃんと伝えて、手紙を書いたり、休みのたびに会いにいけば良かった。もらった愛情を返しきれなかったことは、悔やんでも悔やみきれない。
今日は一日中、祖父のことを考えた。朝のコーヒーを飲もうとしたとき、帰りの電車に揺れているとき、部屋の明かりを消そうとしたとき、そんな何気ない日常の中で、おじいちゃんの記憶は顔を出す。

私の心の中で祖父は笑顔のまま生き続ける。
これからもずっと。